炎症の技法 2005

火山焼に至る思考
古くからの造形素材である粘土を用いて造形制作を行ってきた。塑造を通して制作と破壊を繰り返す中で、粘土の持つ物質的特性に着目せざるを得なかった。塑造に用いられる粘土は、含有される水分の量によって造形的性質が多様に変化する。すなわち、水分を多量に含む粘土は泥状で流動的であり、適量であれば可塑性を持ち、水分が少ないとやわらかい石のようであり、さらに少なくなると脆く崩れやすくなる。そして、砕きつくした粘土は完全な粉末である。流動性、可塑性、延性のような性質、脆性、粉末状態、それらの間を可逆的に行き来するのだ。その表情は極めて豊かである。
粘土という物質が持つその特殊な性質を主題とするため、私は造形美術として、用いた粘土を焼成したり他の素材に置き換えたりせずに、濡れたままの可変的な状態にとどめておくというやり方を選んできた。しかしそれは同時に、造形そのものの崩壊を意味していた。さらに、歴史的には粘土造形物を焼成することは非常に重要だった。焼成の発見がなければ、粘土が造形素材としてこれほど利用されることはなかったかもしれない。素材の置き換えを忌避することはできても、粘土の焼成を無視することはできない。
粘土は焼くと固まって石のようになるという不思議な性質を持つ。焼成することによって、「焼きもの」「セラミクス」などと呼ばれる別の物質に変化する。これは不可逆的な変化であり、一度焼結した粘土は二度と元の可塑性を持つ粘土に戻ることができない。やわらかい粘土に慣れ親しんでいた私は、このことに深い驚きと違和感を覚えた。そして、不可逆的な事象の根本は、時間の構造にあると思い至った。
物質としての粘土は、元来火山からやってくる。彫刻家や陶芸家が造形素材として用いる粘土は、地質学的な時間と作用を経て、地球上の岩石が変化した鉱物である。地球上の岩石つまり地殻とは、地球内部の熱対流などによって地上に噴出されたマグマの冷え固まったものである。マグマ(熔岩)が噴出される場所は火山と呼ばれる。火山から地表へ出た熔岩は膨大な時間をかけて粘土鉱物へと変化し、粘土鉱物はやがて大陸とともに再び地球内部へ沈み戻っていく。この一連の壮大な循環のなかで、人間がその粘土を用いて創造・生産行為を行うことにどのような意味が生じうるのだろうか。それとも特に何の意味もないのだろうか。
粘土は地質学的な時間と作用を経て、マグマ(熔岩)が変成した結果である。マグマが粘土へと変成するには、膨大な時間を費やす。従って、粘土には何らかの時間的本質が含まれていると考えられる。そのことから私は、粘土で制作した造形物を活火山の熱で焼成しようとする「火山焼」と呼ぶ新たな技法を考案した。私という一個の生命素材の行為による粘土造形物質を、その変遷の源であるマグマへ不可逆的に再投入することによって、何らかの時間的構造を視覚化しようと企図した。

可塑的な世界
粘土が持つ最大の特徴は、水分の含有による可塑性の発現と、熱によって焼き固まる焼結という現象である。
粘土は私にとって世界の隠喩である。世界は粘土的本質を持っていると感じる。ここで、粘土の持つ二つの不思議な性質を通じて、世界を記述してみる。

可塑性とは、人がこの世界を自分のいいように作り変えてゆき、その反作用を受けることである。人が自由に物事を形作っては図らずも壊される、その繰り返しである。システム、プロダクツ、関係性、環境などの絶え間ない産出と破壊である。可塑性とは、世界の自在な変形であり、建設と解体の繰り返しであり、自由と裏腹な不自由である。人にとって世界は可塑的である。世界の可塑性は、脳の可塑性を反映している。可塑的な活動は、記憶のシステムである。人にとって未来は常に、良くも悪くも可塑的である。
塑造する行為は、人が地球を変形させることと同じく自由に満ち、同時に不自由で溢れている。

時間の構造
一方、焼結という現象は不可逆であり、取り返しのつかない時間を象徴している。それは表面的効果としては、一種の忘却である。焼結反応は粘土に含有する水分を完全に失うことによって成立する。流れるものの代表は水と時間である。焼結現象は逆説的にも、流れる水を失うことによって、流れる時間を象徴する現象となる。取り返しのつかない時間を感じる人間の感情には、根深いものがある。時間を自由に操れないことからあらゆる音楽が発生する。人は時間を可塑的に扱えるようになるのだろうか。現状では私たちは時間を数えることができるだけだ。
私は自作の粘土造形物を活火山へと持って行き、地下深くからやってくる地球のエネルギーを利用して焼くとき、マグマが粘土へと変成するその巨大な時間の感覚の中にいる。そこは、むしろ時間の水溜りのような場所だ。時間の構造とはどのようなものだろう。時間を変形させるには、おそらく重力が鍵になるだろうと思う。

自然生物界のなかで従属栄養生物であり、宿命的に消費者である人類の生産できるものは2つある。ひとつは排泄物であり、もうひとつが芸術である。「火山焼」は、人間の活動が本質的に自然にあるエネルギーを利用・消費するものであることを端的に示している。創作/生産行為を自然界の循環のなかに位置づけ、そのプロセスに焦点を当てている。
それにしても、自然界が循環しているものとして、過ぎ去った時間は今どこにあるのだろうかと私は思う。

2005年10月31日 椎名勇仁

 

 

Kazan-yaki DVD 2005 Edition
2005 / 55分
2000〜2005年までの火山焼の映像ドキュメント集
Kazan-yaki 2003 (10min.)
Monstrous Bird of Stromboli (12min.)
Fire Fishing (8min.)
Wig for Robot (12min.)
The Infant (7min.)
Sika (A Deer as a Messenger) (3min.)
Hot Spot Plan (3min.)
■2005.10
kazan-yaki05

 

 

Kazan-yaki 2000-2007
2008
DVD
12分55秒
火山焼DVDダイジェスト板
■2008.02
kazan-yaki08